優柔不断と迷いを少なくする方法 | 聖書利用で効率化

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始めにお伝えしますが、この記事は私独自の聖書の読み方について書いているであって、キリスト教の教えウンヌンや布教に関するものではありません
私は「聖書」を読み始めてから、優柔不断になったり迷ったりする事が少なくなりましたので、私の「聖書利用法」を書いてみたいと思います。

繰り返しますが、「神の教えがー」という内容では決してありません笑

目次
キリスト教の聖書とは
聖書との出会い
優柔不断と迷いを減らす
仕事と生活を効率化
異文化理解への近道
まとめ

マラウイでは「あなたの宗教(教会)は何?」と聞かれる事がよくあります。そして私は迷わずに「アングリカン」(キリスト教の一派)だと答えます。毎週教会には行きませんが、年に数回教会には訪れていて、聖書はたまに読んでいます。

以前の私はかなり優柔不断で迷っている事が多かったのですが、聖書を読みはじめて、聖書を「利用」するようになってからはかなり少なくなりました。
もちろん経験を積むことによって迷いが少なくなった部分もありますが、どのように聖書を生活や思考に取り入れているのかという事と、大学で専攻していた心理学の面での宗教についても書いてみます。

敬虔なキリスト教徒の方には少々受け入れ難い内容になっているかもしれませんので、あらかじめご理解の上読んで頂けると嬉しいです。

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キリスト教の聖書とは

教会と男性

ご存じの「聖書」は世界で最も発行部数が多いとされている書籍で、キリスト教の経典となっています。
詳しく書き始めるとキリがないのですごくざっくり説明すると、「聖書」には二種類あり以下のようになっています。

  • 旧約聖書
    ユダヤ人を中心とした天地創造から始まる昔話
  • 新約聖書
    イエス・キリストの言動やそれにまつわる話

となっており、どちらも物語の短編集のような形で書かれています。
これは私の独特な観点になるかもしれませんが、旧約聖書は過去の人々の経験から教訓が得られ、新約聖書はイエスの教えを考察する本というように読んでいます。

もちろん現代の一般的な文化や、日本人として持つ観念から理解し難い部分もたくさんあるのではないかと思います。
私自身も理解できな観念はたくさん出てきますので、教会の牧師さんに聞いたりする事もあります。それでも理解できない(受け入れられない)事はいくつもありますけどね笑

私が聖書を読み始めたきっかけを書いてみようと思います。

聖書との出会い

宗教絵

私の聖書との出会いはアニメ「エヴァンゲリオン」だと思います。
幼少の頃に通っていた英語教室の先生がキリスト教徒だったり、友人にモルモン教徒がいたりと、以前から緩い接触はあったのですが、一番の大きなきっかけはそのアニメだったと思います。

エヴァンゲリオンにはユダヤ教やキリスト教にまつわる名称や、概念が多く出てきます。それらを調べているうちに聖書に興味を持つようになり、20代半ばころからちゃんと聖書を読み始めました。

そして、聖書の中には人が生きる上でのヒントになる事が多く書かれている事に気付きました。

優柔不断と迷いを減らす

霧の中

私は小さい頃から失敗を恐れて、確実な選択をしようと毎回の選択に迷い優柔不断な状態でした。

今の私は、迷っている時間はもったいないと思っています。
選択に迷う事自体は問題は無いのですが、それが長時間続くのは無駄で非効率だと考えています。個人的に今現在は、迷うものの対象(案件)にもよりますが、比較検証する時間が必要でないのであれば、2分以上迷うのは非効率としています。

聖書には多くの教訓が記されています。
直接的に「こうしてはいけない」という事や「こうするとよい」という事が書いてありますが、それ以外にも人や物事のエピソードが多く書いてあり、そこから色々な教訓が得られます。

迷う、と言う事は自分の判断に自信がなかったり、何かを選択するのに値する根拠が不十分なために起きます。そんな優柔不断な人間が聖書を読み始めた事によって、そこにある教えや教訓を根拠として、人生の中に出てくる選択に迷う事を少なくし、判断を早くできるようになりました。

もちろんここには聖書の内容を選択の「根拠」とするのに、「根拠」とする「根拠」が必要となります。要するになぜ「聖書」が正しいと言えるのか、という理由が必要になります。ここが一番難しいと思います。
私のやっている事は
無条件に聖書の内容を正しいと信じる
ことです。

これは少々理解できないかもしれませんが、無条件に信じる事がなぜ重要なのかは後述したいと思います。

迷いが少なくなり、判断が早くなると仕事や生活が結構変わってきました。

仕事と生活を効率化

ふたりの少女

仕事と普段の生活において優柔不断になる回数が減ると、かなり効率的に物事を進められるようになりました。
仕事の場合には、利益や生産性など指標となるものが多くあるので、それを基に判断をしますが、それでも想定される効果がほぼ変わらなかったりすると迷う場面が出てきます。その時に聖書の教えを引っ張りだしてきて、それを根拠に判断を下します。
もちろん聖書の教えに沿って選択したとしても、選択が成功すれば言う事はありませんが、「選択」ですので結果として失敗する事もあります。しかし、それは聖書の教えを利用しなかったとしても同じく失敗する可能性はあったはずです。

そしてここからが肝になります。

もし聖書の教えを引っ張り出して失敗した場合は、全て聖書のせいにしてしまいます。
自分のせいではなく、聖書のせいです。
もちろん選択過程によって反省すべきところは反省し、改善しなければなりませんが、それでも自分で算段した成功確率が五分五分で聖書の教えに頼って失敗したのであれば、全部聖書のせいです。自分に非はない、と考えます。
無条件に聖書を信じていれば全て聖書のせいにできます。聖書を信じた自分のせいにしたくなるかもしれませんが、ここで自分のせいにはしません。何度もしつこいですが、全て聖書のせいです。

今となっては、色々な経験を積んで失敗を失敗と考えない思考となっていますが、20代の頃はやれることをやって失敗したとしても、自分に何か非があったのではないかと思う事がよくありました(改善点をクリアしたとしても)。
そのような時に聖書の教えを「利用」して、選択時と選択結果における精神的な負担を大きく抑える事ができました。

祈る人

私は大学で心理学を勉強している時に、宗教観についてとても大切な事を学びました。それは、
信じる者は救われる
という事です。
正確に言うと「信じる」という行為が人を救う場合がある、といった感じでしょうか。
私は神の存在を信じてはいません。しかし、「信じる」という行為により、人の精神的な安静や自信を与える事が大いにあると考えています。
これは神や宗教に関わらず、人やモノの対しても「信じる」事によって不安を取り除いたり、自信を損なわずに、期待通りまたは期待以上の結果を得られた経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

再度書きますが、選択の失敗において、反省と改善は常に必要です。それすらもせず全てを聖書のせいにすると進歩がありません。

このような聖書の利用方法以外に、聖書を理解していると他の文化理解にも大いに役立ちました。

異文化理解への近道

アフリカの風景

私の実家は仏教系のちょっとマイナーな宗教でした。
父親の家系が全てそれでしたので、お盆、正月、葬式など何かあるとそのお説教を聞いたり、お祭りに参加したり、自宅に祭壇があったりと結構仏教観の強い家庭に育ったと思います。

そういう環境もあってか、ちょっと角度の違う点から物事を見ている聖書は私にとって刺激的だったのかもしれません。もしくは、特定の宗教観を持つ家庭への反骨的なものもあったのかもしれません。

何にせよ、見方の違う2つ(日本で生活しているのであれば神道を入れて3つ)の視点から人生観や倫理観を感じれた事によって、それ以外の観念を受け入れ易くする土壌を作ってくれたように感じています。

今住んでいるマラウイでは70%以上がキリスト教徒で、敬虔なキリスト教徒が多いです。生活習慣もキリスト教に影響を受けているものも多いので、こちらの文化を理解するのに、私の持つ聖書の知識やキリスト教の観念は大いに役に立ちました。

マラウイの道徳や宗教観についてはこちらを読んでみてください。

まとめ

雲から差す光

簡単に言うと、聖書を精神の寄り所として、困った事は全部聖書に丸投げしよう、という事になります。
人間一人の能力や判断力には限界がありますし、それを全部背負っていくのはしんどい事が多々あると思います。
私は今となっては、自分のコントロールできない領域において失敗する事については何も感じなくなりましたが、もし選択における失敗や判断の過ちについて、精神的に負担に感じているのであれば、聖書に頼るのも一つの解決法になるかもしれません。

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